「日本中枢の崩壊」(古賀茂明)の著者のような浅はかな人物が育ってしまうことこそ霞ヶ関の弱点か
2011年 06月 26日
しかも、事実として間違っている部分もあり、おもわず、どこの出版社がこんないい加減な内容でOKしたのだろう、と訝ってしまうところがある。
いずれにしても、この本の著者の基本的な発想は、市場原理、競争原理が機能すれば、理想的な社会が実現されるというもの。もちろんそういう世界は多々ある。しかし、それではうまくいかない分野については、別の考え方をしなければならない。欧米のように一つの原理で何でも割り切ろうとするところに限界があることに気づいていないのは、あまりにも残念であり、かつ、可哀想でもある。
また、事務官であるせいか、社会で供給されている財の性質によって、どのような供給形態がいいのかということについても知見がない。もっと技官と事務官の間のディスカッションを通じて、本質を見ることに努めてほしいと思うのだが、それこそ筆者の言う霞ヶ関の改革がなされない限り、無理かもしれない。
ただ、例えば、
「一元化」と「一体化」は霞ヶ関言葉では違う。「一体化」は、完全に一緒にするわけではないという意味を含んでいる。という部分や、
「霞ヶ関文学」では「○×等」と「等」を入れた場合、後で拡大解釈するための布石だし、「前向きに」は「やる」、「慎重に」は「やらない」という意味だ。という部分については、普段から業務上、「霞ヶ関文学」に接していて感じていたことを再確認することができた(^^;
なお、
日本の製造業は、ただ「擦り合わせ」を金科玉条として、取るに足らないところまで使い勝手の良さを求める。そのため、高コスト体質から抜け出せなくなっているのだから本末転倒である。という部分については、鵜呑みにしない注意が必要であろう。概念的なレベルでみれば、擦り合わせされたモノは、モジュール化されたものと対極にあるが、このモジュール化されたものというのは、例えば、レゴのブロックを思い出せばいいだろう。レゴのブロックを組み合わせると、ごつごつした形状になるが、なんとなくそれなりの雰囲気のモノは作ることができ、無駄が出るけれど、自在にいろいろなモノを作ることができる。それぞれのブロック(モジュール)は安価にできるので、全体として安く仕上がるということはあるかもしれない。
しかし、シビアな条件で使われたり、長持ちさせたいものなどについては、無駄は大敵である。そこは擦り合わせを行うことにより、無駄を省いて効率を高めたり性能を高めたりしておく必要がある。
とはいえ、日本製の最高級のものを少数普及させるということと、少し廉価なものをたくさん普及させるということは、どちらが社会的な効用を高めるのか、ということについては、日本企業としても考えなければならないところなのかもしれない。
ちなみに、個人的に接す機会が多い気候変動問題を担当している人たちは、省の利益を考えるよりも、国としてどうすべきかということを考えなければならない場面が多いからか、この本の著者が描く官僚像とは少し印象が異なる。もちろん、省のために働いているという印象が弱いから、将来の処遇もそれなりになってしまうことがあるかもしれなのだが、それは日本という国にとっては損失となるだろう。世界の目を理解した上で、日本はどうしたらいいのかをしっかり考え、その上で、各省庁がどう役割を分担すればいいのかということを考えることができる人がもっと増えてくれればいいのにと思う。
いずれにしても、一人でできることは限られている。筆者は優秀な部類に入るとは思うが、それでも、もっといろいろな人と接し、いろいろな人から謙虚に学べば、ここまでいい加減にはならなかっただろうに。浅はかな筆者ようなの存在も、ある意味、霞ヶ関の現在の弱点を示しているのかもしれない。
24日、とうとう経済産業省は、これまで民主党の公務員制度改革などを批判してきた同省の古賀茂明氏(55歳)を退職させる方針を決め、本人に通達した。既に古賀茂明氏は、大臣官房付という閑職に追い込まれている。ともかく古賀茂明氏は、憂国の士というか珍しくまともな人というか、経済産業省をはじめとする官僚や政府のなれ合いによる亡国の政策を批判してきた清廉の士である。この人をいよいよパワーハラスメントによって退けようとしている官僚の姑息さがかえってクローズアップされてしまった。古賀茂明氏は..... more