壁を破りながら前に進んでいきたいものだ:「水野さんから学んだこと」(LIXILディアーズ 森清之)

LIXILディアーズ・ヘッドコーチの森清之氏といえば、京都大学のアメリカンフットボール部のコーチをされていたときにお世話になっていたから、私の中では「森コーチ」である。その森氏が「水野さんから学んだこと それは教室に座って講義を受けるだけでは絶対に学ぶことのできない学問の本質」という記事を書かれていた。その中で、こんな件があった。
 自分自身に真剣に向き合うことによって、自らの限界を意識し、それを超える。これが壁を破るということ。

 壁を破れば世界が変わり、認識が変わる。つまり、自分が変わる。いわゆる「そうなってみて初めてそれが分かる」ということである。 

 最も重要なのは、頭で考えることでも知識を増やすことでもなく、壁を破るために今の自分を捨てて、先の見えない未来に身を投じる勇気と覚悟なのだ
この部分だけを取り出してみると、起業家たちがやっていることに通じるものがあるような気がする。

ある意味、見境なく突き進む中でしか得られないものというものがあるということなのだが、周りから見れば、一歩間違えば狂気の沙汰としか思えないようなところもあったりして、それが「常識外れ」というレッテルを貼られたりしてしまうことになったりもするかもしれない。しかし、そういうところを進んでいかなければ、切り開けない道もある。

周囲に理解されないかもしれないけれど、自分でも分からないかもしれないけれど、ただひたすらにやっていく。新しいことをやっていくということは、そういうことなのかもしれない。

しかし、それも、健康であってはじめてできること。病気や怪我をしてしまうと、それはできなくなる。

潰れてしまわない限り、壁を破りながら前に進んでいきたい。記事を読んで、改めてそう感じた。

 



参考:記事全文

以下は2014年に出版された電子書籍「水野彌一語録」に収録された、日本代表ヘッドコーチ・森清之氏が水野彌一氏について記した文章です。

 【プロローグ】
 水野さんについて書けとの下命があった。フットボール人としてはほぼ100%、それ以前に、頭でっかちで甘ちゃんな小生を、多少なりともまともな人間に育てていただいた大恩人、師匠である。
 弟子としては畏れ多いことこの上ない。しかし、「水野彌一」という稀有な存在を記録としてまとめ、多くの人々で共有していくことは、フットボール界はもちろんのこと、スポーツ界、教育界、(決して大袈裟ではなく)ひいては社会全体にとっても意義のあることだと考え、自らを奮い立たせて筆をとった次第である。
 小生は極めて幸運なことに、大学を卒業以来、25年以上もフットボールのコーチを続けさせていただいている。コーチをしていて、いまだに、「あの時、水野さんがおっしゃっていたことはこういう意味だったのか!」と遅まきながら気づくことがある。
 また、その一方で、「あの時、水野さんはきっとこういう気持ちだったんだろうな」と思うことが増えてきた。選手にとっては全く関係のない話ではなはだ申し訳ないが、正直に告白すると、個人的にはコーチ冥利に尽きる至福の瞬間である。


 【出会い】
 大学に入ってフットボールをしようなどとは微塵も考えていなかった。それが、30年以上もフットボールに関わり続けているのは、もちろん水野さんと出会って人生をそらされたからである。
 水野さんとの初対面は今でも鮮明に覚えている。当時、部員の行きつけのとんかつ屋さんで食事をご馳走になっていると、突然、上下グレーのスウェット姿の小柄な人が入ってきた。
 服の上からでもわかるがっちりとしたいかにも屈強そうな体格、短髪で異様に鋭い眼光。私の勧誘担当だった深堀さん(現社会人協会理事長)が小生のことを紹介すると、「とりあえずやってみ。やってみて、おもろなかったら辞めたらええねん」とおっしゃって出ていった。その間1分足らず。
 水野さんは、(水野さんの師匠である)藤村先輩に出会って京大でフットボールをしようと決意したことは有名なエピソードである。水野さん曰く、「藤村先輩に出会った時、スイッチが入った。藤村先輩に巡り会った幸せを感じ取る感性を持っていたことが自慢」とのことだが、残念ながら小生はそのような感性は持ち合わせていなかったようである。
 水野さんの印象は強烈であったが、それで入部をしようとはならなかった。
 中高の6年間はずっとバスケットボールをしてきた。地区大会でも早々に姿を消す公立の弱小チームではあったが、それなりに練習はきつく、時代が時代だけに、いわゆる『体育会』的な雰囲気も少なからずあった。
 その経験から考えるに、日本一を狙おうというチームの練習がどれだけきついか、上下関係をはじめとした体育会のしきたりがどれだけ厳しいか、想像することは難しくなかった。入部するのは非常に気が重かったが、食事をご馳走になった手前、せめて見学くらいは行かなければと思ったのが運の尽きだった。


 【頑張るな】
 実際の練習は小生が想像したものと180度異なるものだった。我々新入生にかけられた言葉は、「受験勉強で体は想像以上になまっとる。けがするからいまは頑張るな」「一回生は神様や。雑用なんかせんでええ。そんな暇があったらフットボールを覚えろ」「観念論より具体論が大事。まずは頭で理解してそれから体を動かせ。頼むから『とにかく頑張ります』だけは止めてくれ」「日本一になることを事業として捉えろ」等々。
 それらは全てそれまで自分が経験してきたスポーツの概念を根底から覆されるものだった。ひとつひとつが極めてロジカルで新鮮だった。あまのじゃくの小生はまんまと水野さんの術中にはまり、徐々に深みへ足を踏み入れることになる。


 【現実主義者、合理主義者】
 世間では水野さんを精神主義者だと思っておられる方も多いように思う。それは全くの誤解である。水野さんは、徹底した現実主義者であり合理主義者である。その場の感情や情緒に流されることを非常に嫌う。(否、監督としてそうあろうと努力されている部分も多分にある、と言う方がひょっとすると正確かもしれない)。その証拠に「わしは、ああいうのが一番嫌いやねん」ということをしばしば口にされる。
 現実主義者とは、自分の理想とは関係なく、本質を見極め、現在自分が置かれている状況を把握し、よく考えてベストの行動をとる、ということである。
 合理主義者とは、自分の好みとは関係なく、良いものは良いと言えることである。「好き、嫌い」「どう思うか、思われるか」などということは一切排除される。矛盾するように聞こえるが、前述のごとく水野さんは決して精神主義者ではない。
 精神主義は大嫌いであるが、仮にそれが勝つために必要なのであれば、精神主義者になることも全く厭わない。
 学生時代、「自分の気持ちほどあてにならんもんはない。そう思うのではなく環境や状況にそう思わされているだけや。それをもって自己主張と称するバカな奴等がいるが、そんなもの自己主張でもなんでもない。自分はこういう人間だ、こう生きていくんだ、と自分自身に言い切れて初めてほんまもんの自己主張だと言えるんや」とよく言われた。


 【自分を知る】
 誤解を恐れずに言えば、競技スポーツの意義は「地獄を見る」ことにあると思う。1回生の時は神様だとおだてられたものの、当然、楽をして勝つことなどできるはずもなく、学年が上がるほど厳しさは増した。
 4回生になると、毎日の練習はまさに「闘い」であった。いまだに、京大を訪れた際は、グラウンドに近づくにつれて何とも言えない暗澹とした気分がこみ上げてくる。それほど「4回生」であることは熾烈を極めた。
 自分自身が(自分の)感情の奴隷になるのか、それとも(自分の)感情の指揮官になるのか、極限に置かれたとき、人は嫌でも自分自身の弱さと向き合わざるを得ない。そして、自分自身と向き合うことによって自分というものの本質が少しずつ見えてくる。
 自分の弱さを認め、それを克服していこうと必死にもがいていると、ふと何かの拍子に自分自身の心から自由になれる。もしくは、そんな錯覚に陥る瞬間がある。これこそが真の自由で、この経験は何にも代えがたい。
 そんな場があることが、京大アメリカンフットボール部の存在意義のひとつであり、そういう自由が確かに存在すると確信できたことが、水野さんから教わった大切なことのひとつである。明るく楽しいキャンパスライフとは対極にあった学生時代だったが、そのような場を与えてくださった水野さんには、どれほど感謝してもしきれるものではない。


 【朝令暮改大いに結構】
 水野さんは、完成、完璧、完全が大嫌いである。頭の中は常に次、次はどう変えようかと、変えることばかりを考えている。言うことがころころ変わるのは自他ともに認めるところ。
 我々に「練習が足らん! できるようになるまで徹夜してでも練習せい!」と前日の4回生ミーティングで言ったかと思えば、次の日の練習では、「お前ら気軽に練習し過ぎじゃ。時間は無限にあると思うからそうなる。居残り練習は一切禁止!」。こんなことは日常茶飯事であった。
 まだよくわかっていない下級生が、前に水野さんは確かにこう言った、と不満を訴えても、ご本人は「朝令暮改大いに結構やないか」とあっけらからんとしておられる。
 朝令暮改ならまだましである。こんなこともあった。当時、猛威を振るっていた日大のショットガン攻撃への対策のため、パスカバーの練習をしていた時のことである。その日、我々はゾーンカバーにおける適切なポジショニングの取り方のドリルをしていた。出されたサインに従い、仮想敵のフォーメーションにアジャストして自分の守るべきゾーンに散る練習である。
 その当時の日大は常軌を逸する練習量に裏打ちされた精度の高いパス攻撃を誇っており、我々守備陣も精度の高いパスカバーが要求されていた。水野さんはビデオ撮影用のやぐらに上って我々の位置取りをチェックされていた。
 ある選手が、自分のゾーンに下がった位置を見て、「おい、○○。何回言ったらわかるんや。そこじゃない! もっとずっと外や!」。その選手が、指示に従い外にずれると今後は、「行き過ぎや、少し戻れ!」「もう一歩内!」「違う、半ヤード右!」「足幅1足分左!」―。
 水野さんの指示が出るたびその選手は右往左往。こんなことを何度も繰り返し、ようやく「よっしゃ、そこや! なんでこれが最初からできへんねん?」とOKが出た地点は、その選手が最初に下がったポイントと寸分たりとも違わなかった…。
 さすがに、これは極端な例であるが、水野さんとしては選手に指示を出しながら、同時にご自身の頭をフル回転させて、もっといいポジショニングがあるのでは? と考えておられたのであろう。


 【オーバーアジャスト】
 言うことがころころ変わるといっても、ざっくりいうと二つのパターンに分けられる。ひとつは、水野さんの頭の中のイメージは一切変わっていないのだが、選手の個性やその時の状況に応じて、教える時の表現が変わるパターン。水野さんは選手を指導する際、しばしば「オーバーアジャスト」を強調した。
 オーバーアジャストとは、技術的な欠点を直す際に適正に向って少しずつ修正していくのではなく、適性を大きく超えるくらい極端に変えてしまうという意味である。たとえば、ブロックの際にパンチが遅いという欠点があるのであれば、ちょうどいいタイミングになるように少しずつ早くしていくのではなく、「早すぎる!」と注意されるくらい一気に変える、ということである。
 極端に変えることで、今の自分を捨てさせ、新しい世界を体感させるという意味合いもあったのだと思う。したがって、水野さんの指導は極端な表現をとることが多かった。対極を行ったり来たりして大きく振れながら、適正なところを探してそこに収斂させるという手法である。
 水野さんの頭の中の「適正」はそれほど変わっていないのだが、そこにたどり着くための案内の仕方はしょっちゅう変わるのである。しかも、指示する方角が正反対になることの方が多かった。初めは誰しも戸惑うが、発せられる言葉に右往左往するのではなく、水野さんの頭の中のイメージを理解しようと努力し、共有できれば全く違和感はない。


 【正解はない、だから変える】
 もうひとつのパターンは難しい。前述のように、水野さんは常にもっといいものがあるのではないかと、変える事ばかりを考えている。物事には正解はない。とりあえず、今はこれがベストなのでやっているが、やってみて悪かったり、もっと良いのが見つかったりしたら変える。もっと言うと、変える事、それ自体を目的として変える事すらある。
 だから、言うことはしょっちゅう変わる。いまそれが大成功を収めていたとしても例外ではない。小生が現役を終えてコーチになったばかりのころである。突然、「わしのことをこれから『水野さん』と呼ぶな。『監督』と呼べ」と言い出した。
 いまでもOB会などで皆が集まると、我々までの世代は「水野さん」または「みーさん」と言うが、下の世代は「監督」と言うことが圧倒的に多い。
 我々のころは、選手とコーチは日本一という事業に向かって共同作業をしているのだから対等である、違うのは役目だけ、だから「水野監督」と呼ばず「水野さん」と呼べと、こだわってあえて「水野さん」と呼ばせていた。それが、ある時突然、「監督」と呼べと180度変わった。なぜそうなるに至ったかについてはここでは割愛するが、一事が万事、こんな感じである。
 2年連続で3度目の日本一となり、著書や講演など至る所で自身を「水野さん」と呼ばせている訳について散々述べておきながら、その翌年、突然、変えてしまうのである。
 水野さんの頭は、常に「次」を考えているから、何の躊躇もなくすっぱりと成功体験も捨ててしまう。水野さんにしてみれば、気まぐれで変えているのではなく、極めてロジカルに考えた結果の至極当然な結論なのだろうが、これは周りの人間にとって理解することは難しい。
 小生がコーチの端くれに身を置かせてもらうようになって感じる水野さんのすごさは、常に「次」が見えていることである。選手に今の課題を具体的に指導しながらも、同時に水野さんの頭の中にはその選手の未来の姿があることだ。


 【教育者】
 現役時代、水野さんを教育者として考えたことは一度たりともなかった。なんせ「お前ら関学に勝つためなら悪魔に魂までも売る覚悟はあるか?」と、真剣に詰め寄られるのである。いわゆる礼儀作法とかについてあれこれ言われることもほとんどなかった。むしろ、そんなことは全てどこかに置いておいて、ただ勝つことのみを徹底的に考えろ、と言われ続けた。
 しかし、現役を終え、コーチとして水野さんと接するようになってから、それは大きな間違いであることに遅まきながらも気が付いた。水野さんほど、選手のことを考え、選手やチームのために自分を捨てて、文字通り無私の精神で指導に当たっている方を小生は知らない。
 思うに、小生が京大で水野さんから学んだことは、教室に座って講義を受けるだけでは絶対に学ぶことのできない学問の本質だった。自分自身に真剣に向き合うことによって、自らの限界を意識し、それを超える。これが壁を破るということ。
 壁を破れば世界が変わり、認識が変わる。つまり、自分が変わる。いわゆる「そうなってみて初めてそれが分かる」ということである。
 最も重要なのは、頭で考えることでも知識を増やすことでもなく、壁を破るために今の自分を捨てて、先の見えない未来に身を投じる勇気と覚悟なのだと学んだ。学んで成長したあとにしか自分のしたことの意味が分からないのだから、「頭で考えるから分からへんのや。だから京大生はアカン」と言われるのもごもっともなのである。
 図らずも、先般、東大の濱田総長が「自己投企」という哲学用語を用いて入学式の訓示をされたそうである。自己投企とは、これまでの自分にとらわれず、まだはっきりと見えていない未来の可能性の中に身を投じ、そこで思い切りもがいてみることによってこそ自分というものが形成されてくるという意味である。
 まさに我々が水野さんから教えられてきたことに他ならない。


 【エピローグ】
 小生がコーチとして偉そうに選手に言っていることのほとんどは、水野さんからの受け売りである。『ベストは尽くすものではなく超えるもの』など、まさにそのまま言葉を換えればパクリである。そんな、大師匠について好き勝手なことを書いてしまった。
 水野さんの内面など小生ごときに分かる由もないが、かなりの部分において監督としてその時点におけるベストのことを遂行するために、そうあろうと努力されているのではないかと思う。それだけ強い意志の力で自分の感情や情緒をコントロールされているのである。
 フットボールだから京大でも勝てると考えてフットボールをしただけで、その意味で必ずしもフットボールでなくても良かったとあちこちで書かれているが、やっぱりその実、フットボールは大好きなのである。
 一昨年に京大の監督を勇退された後、もうコーチは体力的に無理だから隠居だと冗談めかしていたが、案の定、また第一線に戻ってこられた。隠居はまだまだ先のようで弟子としてはどんなチームを作られるのか楽しみで仕方がない。
 また、拙文を書くに当たって改めて水野さんの教えを振り返ることができ、極めて有意義であった。このような機会を与えていただいた共同通信社の松元様に感謝したい。
 寛容な水野さんが「あいつ、好き勝手書きやがって。あいつは全然分かっとらん!」と言いながらも、笑ってお許しいただくことを祈りつつ。(LIXILディアーズ・ヘッドコーチ森 清之)

by yoshinoriueda | 2015-03-08 00:09 | POP・movie・スポーツ | Trackback | Comments(0)

清涼剤はSilicon Valleyの抜けるような青い空。そして・・・


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