「自分探し」してもいいんじゃない?!

内田 樹氏の「学び・再構築──未来に向けて変化を続ける」というコラムを読んでいると、シリコンバレーで出会った「自分探し」という言葉が出てきた。
例えば「自分探し」。これは極めて反教育的なスローガンだ。自分の中にピュアな自分があって、欲望や未制御の感情を剥き出しにすることが自分らしくあることだと思い、ちょっと不快なことは拒否したり、好きなことだけやってしまう。自分らしさにこだわるから、社会性を失い、新しいことを学ばず、進歩が止まる。実際、見た目は大人でも、精神年齢が10歳くらいで止まっている人が大勢いる。自分らしさを探求してきた一つの帰結が、これだろう。
この文脈で言えば、確かに、「自分探し」という言葉は「反教育的」である。そんな「自分探し」は「勘違い」でしかない。たしかにシリコンバレーでも、「勘違いな自分探し」をしている人に出会うことがあった。もしかしたら、その人たちは、「ピュアな自分」などという耳障りのいい言葉を盲目的に信じているのかもしれない。残念ながら本人たちは気づいていないだろうし、周囲も何も言わない。もうオトナなんだから、そんなことは言われなくても、周りの空気を読んで気づくべきだ、ということだろう。

では、学ぶということはどういうことなのかというと、
人生は微妙な入力の差で変化する。喋っているうちに、途中で考えが変わったり、新しい入力があるたびに自分のシステムが組み変わって出力が変わる。既知でなく未知。「時間の未知性」に敬意を表し、自分の未来を開放し、時間の中を転がっていくことが、学ぶこと、考えることだ。
ということらしい。実際、相手とクリエイティブな会話がなされていれば、話をしている途中で考えが変わったり、新しい見方ができるようになったりする。

ここでも表現されているが、学ぶということは、時間を使う。「時間」は、日常生活の中で当たり前に消費されていくから、普段の生活の中で葉、時間の重要性を見落としがちである。しかし、本当は、時間以上に貴重なものはない。

そういえば、「旅するジーンズと16歳の夏」でも、病気のため残された時間が少ないという設定で登場したベイリーという少女が、欲しいのは「時間」だというようなことを言っていた。いずれにせよ、時間は貴重である。

この時間という概念を入れて、「教養」と「雑学」の違いは次のように説明されている。
…「雑学」は二次元平面上に情報や知識をただ並べた状態で、言わば「無時間モデル」。一問一答形式の早押しクイズが基本的な形態だ。「教養」は「時間モデル」。時間の中で、学ぶ主体が、学ぶプロセスに身を投じることによって、学び始めた状態と、学びつつある状態と、学び終えた状態で、「別人」になっているのが、学びの基本的なあり方であって、そういう学び方を知っているのが教養人。 …
こんな「学び」を実践することにより、自分が変わっていくことを楽しむことができれば最高だろう。そして、学ぶことによって自分を作り変えていく、そんな「自分探し」はアリなのだろう。
by yoshinoriueda | 2005-12-20 22:04 | いろいろ読んで考える! | Trackback | Comments(0)

清涼剤はSilicon Valleyの抜けるような青い空。そして・・・


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