規律訓練型vs環境管理型vs・・・(「<心>はからだの外にある」より)
2006年 06月 16日
北米やヨーロッパの先進国で初等・中等教育を受けたことのある人、あるいは、それらの国で子どもを教育した経験のある人にはずいぶん前から自明なことだろうが、日本の教育制度は、いまだにその大部分が恐ろしく古くさく、端的に言えば、かつての軍隊をモデルとした「規律訓練型」そのままである。・・・ここで、「フォードの自動車工場システムに適合した人材」というのは、いわゆる「均一な品質で大量生産を行なうために、ルールを守り、それをきっちりと効率的にこなせる」というだけの人材であるといってもいいかもしれない。最近の日本教育現場は見たことがないが、いろいろな取り組みが行なわれているようではあるにせよ、まだまだ欧米との差は大きいとも感じる。
日本の教育は、現在でもフォードの自動車工場システムに適合した人材を育てるためのものである。作家の片岡義男は、現在の若い世代を「致命的に遅れたままの教育システムから供給される、遅れていることに気づいてもいない若い人材」・・・と評しているが、筆者もまったく同感である。・・・
なお、このような規律訓練型の教育により、「人々を一定の基準に規格化するような訓練や教育を施し、その規律を各人が内面的に遵守することで社会秩序を維持する」という規律訓練型社会、「実質的には、中央集権的な社会」の基盤ができる。それは、政治家や官僚など一部の権力者にとって、マネジメントしやすい環境である。
これに対して、「環境を操作することで人々をコントロールしようとする環境管理型社会」という考え方もある。「環境を操作する」というのは、例えば、硬い椅子を店に置くことによって、長居させないというような、「環境を整えることで、本人に自覚させずに、いわばソフトに人々を管理する」方法である。逆に、居心地をよくして、滞在時間を長くさせるというのも、一種の環境管理的なアプローチだろう。
そのようなアプローチに遭遇し、環境をコントロールされたとしても、自分でそれに気づき、逆に自分をコントロールすることができれば、なにも恐れるものはないだろう。そのためのトレーニングが教育なのではないだろうか。
教育とは、既存の社会秩序を維持するために個人を訓練することであってはならない。教育とは、広義の知性(いわゆる知識ばかりを指すのではなく、体験性や身体性も含めて)を陶冶することにより、人間の自由と創造性を伸長させるもののはずである。自由とは、自分の能力を発展させることで、自分の生活に影響をおよぼす事柄を自身で制御できるようになることである。よって、教育はあくまで個々の人間の支援というかたちで行なわれなければならないはずである。日本のナマの教育現場を知らずして説得力のあることはいえないが、教育に携わる親や教師は、しっかりこのことを肝に銘じておくべきではないだろうか。