政策とは何なのか?単なるアイデアや思いの集合体か?本当に社会を揺るがすのは...
2009年 09月 17日
日本の気候変動交渉には、「国際的規範」(Norm)という哲学がなく、「狭い国益」やさらには「省益」や既得権益を代弁する下品なものとなった。とのこと。
明らかに亜流の「温暖化懐疑論」だけを論拠に、また予防原則などお構いなしに、政策論を発言すること自体が、「知識人」として不適格
前政権では、ネガティブな印象を与える、歪んだ説明ばかり強調した。そこに国民負担を「脅し」として印象操作した、前政権における「官僚政治」の悪意と闇が透けて見える(中略)経済(ゾウ)のあり様は様々な要因から決まり、エネルギー(ウサギ)はその1つに過ぎない。・・・(中略)しかし、「麻生中期目標検討会」は、エネルギー(ウサギ)による経済(ゾウ)への影響を過度に強調しすぎている。・・・(中略)共通して使われた応用一般均衡モデル(CGE)は、排出量の制約を課すと、計算上、課さないケースに比べて、必ずGDPは減少せざるをえない。・・・(中略)なぜなら、「今の産業構造・社会構造がそのまま続く」というモデルを使っており、将来のさまざまなイノベーションが一切表現できていない。
温暖化・エネルギー政策の改革に、前向きかつ全力で取り組む経験と知性のある「ポジティブなドリームチーム」を、たとえば新設される国家戦略局のなかに「気候変動・エネルギー戦略会議」のようなかたちで設置することが必要ではないか。
政策とは何なのか。
単なる思いつきやアイデア、あるいは信念や思いの集合体か?
品格を持ち出した時点で、論理ではなく、単なる著者の考え、あるいは思いでしかなくなるが、「予防原則」を持ち出して、出来もしないことを言うほうが無責任極まりない。
確かに、モデルというものは、不連続な技術の変化を予測し、その効果を考慮することは難しいかもしれない。とはいえ、「エネルギーの経済に対する影響を過大評価している」という点は、今のこの国の現状を理解していないとしか思えない。この国は、今は、エネルギー資源の大半を輸入に頼らざるを得ない。それを抜きにして経済や社会を語るということは、机上の空論を並べるに過ぎない。
エネルギーというのは、エネルギー準位の「差」を取り出したものである。温度の差、流体の力、光、さまざまなものからエネルギーを取り出すことができるが、それは技術次第。経済的に安定的にエネルギーを取り出す技術があれば、それは日常生活や産業活動で使うことが可能になる。
残念ながら、というべきか、人類が今、経済合理性の下でエネルギーを取り出せるのは、何かを燃やすという方法をとることが多い。石油や石炭、天然ガスといったものを燃やすことで、熱を得、それを利用して、モノを加工したり、蒸気をつくったり、その蒸気で電気を作ったりする。ウランも「燃焼」する。いわゆる核分裂だ。そういったものが、現在の人類が手にしているエネルギー源となっている。
イノベーションによって、少しの「差」しかないところから、エネルギーを取り出せる時代が来るかもしれない。いや、来なければ人類の明るい未来はないだろう。人類がさらに繁栄しようと思えば、環境というものに配慮しつつも、今取り出せないようなところから、経済的かつ安定的にエネルギーを取り出す技術を得なければならない。今すべきことは、そのための仕組みとお金を用意しなければならない、ということなのかもしれない。
昔、FPNのエントリーで触れたけれど、
江島健太郎氏のblog「Kenn's Claircoyance」のエントリー「世の中をぶっ壊す悪意なきテクノロジー」に表現されていたのと同じように、個人的には、テクノロジーこそが社会の根源的な価値観を揺さぶると思うという思いは、いまだ変わっていない。江島氏は言う。
技術こそが政治や経済や文化の水準を決定する因子なんだ。と。そして、こうも言っている。
なぁ、だんな。政治と経済と文化は、馴れ合うことはあるけれど、折り合うことはないんだ。正義と効率と自己満足は互いに矛盾するものなんだ。そこへきてテクノロジーというやつは、これらの持つ制約条件の全てを絶えず揺るがせ、その構築にも瓦解にも寄与しうる文明の基盤でありトリガーであり続けたのさ。と。
無責任な論者のたわ言に付き合ってる暇はない。今できることを着実に積み上げながら、将来の世代に対して、できる限りの努力をすること。それが人間にとってできる最大のことであり、そこから未来は開けるのではないだろうか。
余談・・・
エントリーを書いていて、ふと、
思いだけでも、力だけでもだめなのです。(ラクス・クライン@機動戦士ガンダムSEED)という名言を思い出してしまった(^^;;
参考:ウェブ石碑 名言集