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時間に対する考え方

自分の時間を大切にしている人ほど、しっかりと時間を管理し、有意義に使っているのではないだろうか?そして、約束した時間を守ることは、相手のことを考えていることにもつながるだろう。自分の大切な時間は、相手にとっても大切な時間なのだから。

もちろん、あえて遅れるという戦術をとる場合はある。ただ、政治の世界ならともかく、日常生活やビジネスの世界で、何の理由もなく、ただ漫然と毎回遅れるというのは、信用を失うことにつながるのではないだろうか?個人的には、いつも漫然とミーティングや待ち合わせに遅刻する相手とは一緒に仕事をしたり遊んだりしたくないという気持ちがある。もちろん、事情がある場合は別だが...

時間を守るということは、基本だとおもうけれど、それが基本だと思っていない人にとっては、とてつもなく難しいようである。何度言っても同じなのだ。例えば、10人の仲間がいて、一人が1分遅れると、全体で10分のロスになる。6分遅れると1時間のロス。そう考えたら、時間に遅れるということは、大きなロスにつながっていく。そんな考えには及ばない。

時間は、万人に与えられた貴重な資源である。そして、逆戻りすることはない。ただ、先へ先へと流れていくだけ。だからこそ、その一番貴重な資源 - 時間 - を大切に!

  by yoshinoriueda | 2005-09-30 22:04 | キャリア・生き方・教育 | Trackback | Comments(0)

目一代、耳二代、舌三代

食というのは主観で楽しめるということだが、確かにそうかもしれない。しかし、「目は一代、耳は二代、舌は三代」と言われるくらい、食は奥が深いようである。この話についてググると、次のようなものが出てきた。
「目一代、耳二代、舌三代」という言葉があります。ゴッホなど、目で見る芸術家は一代で大成していますよね。だけど、耳からの芸術、例えばモーツァルトは父親の音楽を聞いて育っており、どうしても二代かかります。それから「舌三代」ですが、本当にグルメになるには三代かかるということ。祖父母の代から本物の味を知って育たないと分からないわけですから。
平成17年5月 女性によるお酒に関する懇談会より)
目一代、耳二代、舌三代
という言葉を大学時代、恩師から教わった。どういう場面で師の口から飛び出したのかは忘れてしまったが、意味は覚えている。
美しいものを見る目(感覚ばかりではなく感性も含む)は本人の日頃の習慣や努力で成しえる。しかし、良い音(音楽も含む)を聴けるようになるには本人もさることながら、子どもの頃からの親の指導や習慣も影響する。さらに、美味しいものを味わう感覚になると、祖父母の代から味わい楽しむ生活をしていないといけない。
たしかこのような意味だった。
食育だけでなく音育もより)
ビジネスなら一代、政治なら二代といったところだろうか・・・

  by yoshinoriueda | 2005-09-29 19:11 | 旅・風景・グルメ | Trackback(2) | Comments(1)

別の名前を持つということ

名は体を現すというが、名前というのは、どういう意味があるのだろうか?久しぶりにカリフォルニアワインを飲み比べながら、別名を持つことについて話をしていて、そんなことを考えた。昨夜の晩餐では、別名を持つということが、別の自分を持つということにつながり、それは、別の人生を生きるということになるのだといった話題があった。

夏目漱石をはじめとして文豪と呼ばれた人たちは、本名とペンネームを持っている。それぞれ、別の名であり、別の人生だということである。そして、その別の人生の中で出会う人やモノに対して、忠実であるということが大切であり、その別の人生それぞれに誠実に生きるということが、当然とされていた文化を日本は持っていたのだという主旨で論旨が展開されるのを聞いて、先の疑問が湧いてきた。

先の議論を否定するつもりはないが、個人的には、それぞれの人生で出会う人やモノといった対象に対して忠実になるということはできない。あくまで自分に忠実でいたいと思うのだ。その「自分」とは、一つの人生を生きる私である。器用じゃないから、別の人生を生きるなんてことはできない。ただ、一つの人生の中に数多くの側面があることは理解しているし、その状況を楽しんでもいる。人は、だれでもいろいろな側面を合わせ持つ生き物である。個人的には、そう考えている。裏を返せば、そのように生きていることのほうが器用なのかもしれない。いずれにせよ、このblogを本名で書いているように、名前やIDがいろいろあっても、私は私で、一人の人間として、一つの人生を生きている。そういう感覚である。

ただ、もし、日本が「別名」を持つ文化であるというなら、それは、匿名性に溢れるインターネットの世界と高い親和性があるという気もする。それが逆に複雑さを増したり、犯罪を増加させたりといったことになるのかもしれないが、そんな残念な部分はあるにせよ、それもそれで文化なのかもしれない。

そもそも、古来、日本人は、本名(諱:いみな)を呼ぶことを避けてきたという。言霊信仰があることから、本名を知られると、呪いをかけられてしまうとか人格を支配されてしまうといった懼れがあるため、本名で呼ぶことができるのは、親か君主だけだったという話もある。そんなこともあってか、字(あざな)、いわゆるニックネームのようなものが存在していたのかもしれない。

なお、幼少期の名前と、元服したときの名前が異なることで、新たな人生を生きるということもできるが、それは、それはその人が「一つの人生の中で」新たな人生を生きるということであって、同時期に二つ以上の名を持つことを意味するのではないと感じる。

さて、そう考えているうちに、「家」という考え方は、なぜ存在するのだろうか?という疑問が湧いた。結婚したら、どちらかの姓を選ぶというのが普通だが、新たな姓を作ってはダメなのだろうか?「家」を継いでいくということは、それほど大切なことなのだろうか?ここで「継ぐ」と言っているのは、別に長男が家を継ぐとかそういう意味ではない。確かに親が子に託したいことや、親が一つの家族として伝えていきたいことはあるかもしれないが、最終的にそれを受け継いでいくかどうかは、子が決めることではないのだろうか?

いずれにせよ、私個人は、自分に忠実でいたい。会社や組織や信条や考え方や他人やモノといったものではなく、自分に対して忠実でいたい。自分がそのとき大切だと思っているものに対して忠実であればいいのではないだろうか。上田嘉紀でも、ヨシノリ・ウエダでも、Yoshiでも、よしのりでも、他人がどう呼ぼうと、私は私である。10種類ものカリフォルニアワインを飲みながら、そんなことを感じた。

  by yoshinoriueda | 2005-09-29 09:36 | 対話の中から発見する! | Trackback | Comments(2)

新規事業を立ち上げたい企業が乗り越えなければならない最初の壁

敵は内に在り。組織が大きくなればなるほど、大きくなってきた過程を忘れて、自分の城だと思っているところを守ろうとする。最初に説得しなければならないのは、その組織に蔓延る前例や組織の慣習に囚われた考え方、あるいはそのような考え方を持つ人であろう。所属している組織のリソースを使うのだから、当たり前といえば当たり前なのだが、実際は、このような局面こそ強いリーダーシップと強力な後ろ盾が求められる。この求められるものは、ベンチャーを立ち上げるときと同じである。特に、後ろ盾は大切だ。(参考:起業家に求められる人としての一番ベーシックな素養とは

社内の説得に時間がかかると、なってもらえたであろうお客さまからの信頼を失ったり、競合する他社との競争に負けたり、得られるはずだった協力者の協力を失ったりといったことになることがある。そういった意味では、既にリソースをもっている状態から新規事業を立ち上げるということは、全く新たにベンチャーを立ち上げるのとは違う難しさがある。

社内を説得する作業に入ると、社内の意思決定者と話しをする機会が増えるから、なんだか重要な仕事をしている気分になってしまうかもしれない。しかし、その仕事からは、直接的には付加価値は生み出されていない。そのあたりを勘違いしてはならない。誰が自分のお客さまであり、最終的に、誰が喜ぶのか。それを強烈に意識することが必要なのではないだろうか。

そのために持つべき危機感は、競争相手がいて初めて芽生えるものかもしれない。そして、競争相手が強大であればあるほど、やりがいがあると考えてみればいいのかもしれない。社内の競争に勝つことが必要なのではなく、競争相手と戦って、市場で評価されていくことこそ、新規事業が本来目指さなければならないところなのかもしれない。

  by yoshinoriueda | 2005-09-28 08:12 | VC・VB・イノベーション・mgt | Trackback | Comments(2)

女性のキャリアに対するしなやかな考え方

仕事をするのは「自己表現」のためという考え方というエントリーをアップしたときに、ふと思い出したのが、シリコンバレーで出会ったイキイキとした女性のビジネスパーソンである。そういわれてみれば、自己実現といった大層なものではなく、日々イキイキと自己表現されていると、今更ながらに思える。そんな女性たちの中から、次のような話を聞いたことを思い出した。
10年後のことなんて、計画なんてできない。3年経ったらどうなっているか分からない。あなたは男だから10年先のことを話すことができるのよ。女はついてくるものだと思ってるんでしょ。・・・でも、例えば、今の彼氏と結婚して、どこかに住むことができて...って考えてると、頭がおかしくなっちゃう。だから、目標なんてなくてもいい。
自己実現だ!目標だ!というと、なんだか、それを達成しなければ男が廃るような気になって、必死にクリアしようと頑張ってしまう。それは、哀しい男性的な性なのかもしれない… また、これも、普段はバリバリと仕事をしているキャリアウーマンから聞いたことであるが、
好きでい続ければ、中断しても、またはじめられる…
仕事や趣味などが好きであれば、結婚や出産で中断しても、同じような仕事を続けていくことができるんだという考え方である。時間が分断されていても気持ちの中で連続させることができると言っているような気もする。ドラッカー氏が「日本画の中の日本人」で述べていた連続性のようなものを感じる。こんな考え方・生き方は、なによりも、しなやかで、強い。

その一方で、男性のキャリアに対する考え方は、直線的な感じがする。だから、硬いかもしれないけれど脆さもある。ひとたび直線の延長線上から外れたら、途方に暮れるほどの感覚に囚われることになることがある。女性のキャリアに対するしなやかな考え方に教えられることは多い。とはいえ、またもや哀しい男の性を繰り返すのだろうなぁ...紫色の朝焼けの空を眺めながら、そんなことを感じた。

  by yoshinoriueda | 2005-09-27 05:05 | キャリア・生き方・教育 | Trackback(1) | Comments(0)

P・F・ドラッカー「日本画の中の日本人」を読んで

P・F・ドラッカーの「日本画の中の日本人」という冊子を読んだ。これは、非売品で、「傍観者の時代」の発刊を記念して「とくに予約者のために」ということで、ダイヤモンド社から昭和54年3月15日に発行されたものらしい。

絵心がないため、よく分からないかなあと思って読んでみたのだが、なかなか面白かった。例えば、
西欧の絵画は、主として幾何学的な構図で描かれている。・・・中国の絵画は代数的である。というのは均衡を重視するからである。・・・一方、日本の絵画はこれとは対照的に、トポロジカル(位相数学的)である。・・・日本の美術は、絵画、陶器、漆器などすべてを通じて共通な流れがあるが、中国ではそれぞれ独立している。それは日本の美術が、幾何でも代数でもなく、トポロジ-、つまり「デザイン」的なアプローチをとっているからではないだろうか。
という部分は、幾何、代数、位相という数学の3つの分野の特徴を捉えた見方である。トポロジーというのは、Wikiでは位相幾何学という形でまとめられているが、「連続性」に重きが置かれた考え方である。たしかに、日本の美術には、連続性のようなものがあり、ピカソのような断続的に見えるものとは全く異なるし、モザイクなどのような断片的に見えるものとは全く異なる。また、
室町時代の南画家は、中国から、技法をはじめ、画題、構図などを学んだが、それを自分のものとして消化し、日本独自の画風を構築した。このように外国文化を受け入れて日本化する才能は、日本の歴史の主流をなしている。・・・日本人は、日本的価値観の効用のためには、外国文化をどう消化すべきかを読み取る直観力を身につけている。
という部分で述べられている「直観力」は、場の空気を読んだり、雰囲気を察知するという場面でも多用される基本的なスキルであり、同質性の高い日本という国で、日本人が得意としてきたものなのかもしれない。そして、最後のほうに述べられている
日本の伝統を貫いている「知覚力」は日本の経済的、社会的発展の基盤となっているものと考えられる。そのような知覚力によって、日本は政治、産業、文化などあらゆる面における海外のエッセンスを把握し、日本化してきたのである。結論として、日本のもっとも重要な特質は「知覚力」であるといえよう。 
という部分は、日本人を大いに励ましてくれるような気がした。別に国粋主義者ではないけれど、たしかに、日本人は、優れた知覚力によって、「『流れ』の中の本質」のようなものを捉えてきたのかもしれない。もしかすると、欧米や中国をはじめとするアジアの国々に対して優位性を保てるのは、そこなのかもしれない。

参考:位相について学ぶには、以下の本が入門としてオススメっ!
 「位相への30講」 (志賀浩二、朝倉書店)

  by yoshinoriueda | 2005-09-26 21:32 | いろいろ読んで考える! | Trackback | Comments(0)

仕事をするのは「自己表現」のためという考え方

仕事をするということは「自己表現」のためであるという考え方に出会った。これは、仕事をするということの本質を見抜いた考え方だと感じた。

マズローの欲求段階説では、「生理的欲求、安全欲求、親和欲求、自我の欲求、自己実現の欲求」という5段階があって、自己実現がピラミッドの一番上にくるように描かれることが多いのだが、なんだか自己実現という響きには、「達成すべき/したい目標」のようなものがあって、非常に静的な(スタティックな)イメージがつきまとう。

これに対して、自己表現のために仕事をするのだという考え方は、しなやかで動的な(ダイナミックな)イメージになる。仕事を取り巻く環境はもちろんのこと、仕事自体、常に変化する。仕事とともに時を過ごしていくというのが、ある意味、現実だから、そんな中で、頑なに目指すものを持つのではなく、仕事に対応し、仕事を楽しむということが大切なのかもしれないと考えさせられた。

自分で事業をしていない限り、つまり、雇われの身で、自己実現することは容易ではない。意義を見出したり自分に言い訳したりといった「まやかし」に似た作業が必要となることも多い。しかし、自己表現ならば、「目標」は、いかに自分を表現していくかということであり、プロセスを楽しむことにつながる。

勉強しない、教育・訓練も受けない、仕事もしないといったニート(NEET)が社会的に問題視され始めていて、さまざまな職業を紹介したり、仕事自体の楽しさを伝えようとしたりといった取り組みがなされているが、そんな中で、この「仕事をするのは自己表現のため」という考え方は、応用できるものなのかもしれない。

ちなみに、なにかをしていくということが自己表現であると捉えると、仕事だけでなく、ボランティア活動や家事・育児といったこともすべて自己表現になるのではないだろうか。そんなしなやかで強い考え方が、今、求められているのかもしれない。

  by yoshinoriueda | 2005-09-26 05:34 | 対話の中から発見する! | Trackback | Comments(1)

「不特定多数無限大」のインターネットが「XMLのアフォーダンスがもたらすスケール感」をもたらす

江島健太郎さんが、「XMLデータがアフォードしてくる」という感覚でデータを見てワクワクするのは、確かにそのとおりかもしれない。
このXMLデータは、「江島健太郎にメールを出せ」「0387654321にファックスを送れ」などという無数のメッセージをアフォードしてきます。そして、そのメッセージは、オブジェクトシリアライゼーションなんて言葉がわかる技術者だけではなくて、その何百倍/何千倍もいるであろう、データの意味を単にリテラルに読むことができるだけの普通の人たちにも届くのです。この圧倒的なスケール感の広がりこそが、XMLの価値なのです。
しかし、実は、その後に書かれている「圧倒的なスケール感」を感じさせてくれるインターネットのポテンシャルこそが、本質的であるように思える。これは、梅田望夫さん講演会ログにある
インターネットの進化
これまでの10年、次の十年、その先10年と進んでいく上でその本質ってなんだ

本質の本質を抽出すると、
不特定多数無限大と(を)同時に○○するコストがゼロに近づいていくこと

「不特定多数無限大」というのがキーワード
という部分で言われている「不特定多数無限大」が、このスケール感につながっていると感じる。アフォーダンスによって、XMLデータ自身が何かを訴えてくるという部分に、インターネットを介してつながる不特定多数の力が集まって、スケール感を醸し出しているような気がした。

  by yoshinoriueda | 2005-09-23 14:56 | いろいろ読んで考える! | Trackback | Comments(0)

ありのままを受け容れる勇気と金魚鉢理論

ありのままを受け容れるということは、時として勇気が必要である。しかし、そんな場合にこそ、敢えてそうしなければ、先には進めないというのが現実である。梅田望夫さん講演ログでは、
これからの話をアナロジーで考えると間違えます
丸ごと、そういうもんかと受け入れて
とサラリと書かれているが、実際、これはかなり難しい場合もあるのだろう。(ちなみに、個人的には、丸ごと受け容れるというのは、とっても面白いと感じるのではあるが...)

この話を読むと、MITの司馬先生の金魚鉢理論を思い出した。著書「ブレークスルー・マネジメント」の中でも紹介されていたものであるが、金魚が何をどのように考えているかを知るために、敢えて金魚と同じように金魚鉢に入って観察し、そこから仮説を創造するという司馬先生の仮説創造法である。

このように実際の現場に入っていって丸ごと理解しようとする方法は、エッセンスを掴み、体系化していく方法を身につけていれば、さらに有効であろう。品質管理の世界におけるKJ法などはその例である。考える「基本」は、やはり大切である。

それはそうとして、現在エスタブリッシュメントの極みに身を置く中で、「ものすごい優秀な人が、ものすごい頑張って、なんとか筋を通そう」とするのを目の当たりにする日々が続くのだが、このような状況の中にいるからこそ、Casual Thoughts about Any Phrase で紹介されていた
新しい現象に対し、「古い感覚を総動員した理論武装」で戦うな
ということを十分に自戒したいと感じた。

  by yoshinoriueda | 2005-09-22 12:53 | いろいろ読んで考える! | Trackback | Comments(0)

福沢諭吉誕生の地

町を歩いていると、ふと目に留まったのが、福沢諭吉誕生の地を記した碑。
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横には、有名な言葉が刻みつけられていた。
「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ 人ノ下ニ人ヲ造ラズ」
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  by yoshinoriueda | 2005-09-22 07:04 | 旅・風景・グルメ | Trackback | Comments(0)

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