中環審の国内排出量取引小委は吐き気がするのだとか...
2010年 08月 31日
えーっと、大阪・中之島に送ってこられても
どーしよーもっていうか、まあ、こちらに向かって「吐いてる」ってこと?!
あーりません
ま、気分が悪くなるようなシロモノには近づかないでおくというのも、君子の作法なのかもしれない(^^;ので、最近なるべく近寄らないようにしていたのだが、どうもひどいことになっている模様。
内田樹氏は、「日本辺境論」で、
ここではないどこか、外部のどこかに、世界の中心たる「絶対的価値体」がある。それにどうすれば近づけるか、どうすれば遠のくのか、専らその距離の意識に基づいて思考と行動が決定されている。という思考パターンを取る人を「辺境人」と呼び、その思考パターン故に
何かの理由で、挙国一致的な努力が要されるときは「世間の常識を知らない田舎者のままでいいのか」「世界標準からこんなに遅れているぞ」という言い方が採用される。必ず採用される。その恫喝が有効なのは、自分たちが世界標準からずれているということについては日本国民全員にその認識があるからです。と主張するが、中環審などで環境派の人たちが述べる主張のパターンはまさにこの
恫 喝のパターン。「排出量取引は世界の潮流」とか「排出量取引を入れれば削減できる」とか本気で信じていて、まさに、海外のほうが優れていて、日本は劣っている、みたいなロジックを展開する。対話ができない。
「恫喝」という点では、気候変動の国際交渉における中国の交渉団の態度と同じようなものかも... あるいはアメリカ? いや、ベネズエラか? ま、どうせ堂々巡りしてるんだから(^^;;
対話ができないということについて、内田氏は、
人が妙に断定的で、すっきりした政治的意見を言い出したら、眉につばをつけて聞いた方がいい。・・・人間が過剰に断定的になるのは、たいていの場合、他人の意見を受け売りしているときだからです。自分の固有の意見を言おうとするとき、それが固有の経験的厚みや実感を伴う限り、それはめったなことでは「すっきり」したものにはなりません。・・・断定的であるということの困った点は「おとしどころ」を探って対話することができないということです。と述べているが、まさに環境NGOなどは、自分のアタマで考えていないのかもしれない。
ある論点について、「賛成」にせよ「反対」にせよ、どうして「そういう判断」に立ち至ったのか、時節を形成するに至った自己史的経緯を語れる人とだけしか私たちはネゴシエーションできません。「ネゴシエーションできない人」というのは、自説に確信を持っているから「譲らない」のではありません。自説を形成するに至った経緯を言うことができないので「譲れない」のです。
ま、話ができない人とは話しても仕方がないんだから、時間と労力のムダかもしれない。
ま、そーカリカリせんでも、ま、産構審のほうでガツンと言ってもらえばいいわけで(^o^)/
排出量取引制度を入れるなんて二流国のすることだー!とかとか。
というわけで、明日は、産構審の政策手法ワーキングの検討タスクフォース。楽しみ、楽しみ~♪