@tsuda こと津田大介氏、「情報の呼吸法」でソーシャルキャピタルを語る〜♪
2012年 03月 11日
ソーシャルキャピタルの定義について、社会科学者の宮台真司さんは最初に(今日的な意味で)この言葉を用いたL.J.ハニファン(1916年)を引用して「メンバー相互の善意、友情、共感、社交を指す。金銭に還元できる資本とは異なる、金銭に還元できない資本という比喩である」と述べています(神保哲生ほかとの共著『地震と原発 今からの危機』扶桑社、2011年)ここでのポイントは、「具体的なアクションや気持ち」を付け加えるということだと感じる。これは、「ソーシャル・キャピタルの実証分析(Social Capital in Contemporary Japan)」とはまたひと味違うので、なかなか面白い考え方だと思う。ちなみに、もう少し日常に近い例では、
これは今でもその通りだと思います。キャピタル(経済資本)とは関係のない、「つながり」による無形・無償の財産とも言えます。ただ、僕はここに「他人に対して気軽に何かをやってあげる」という具体的なアクションや気持ちを付け加えたいと思います。
ツィッターであれば「それは、この人に訊いてみればいいよ」と@付きで教えてあげるようなことです。
僕なりのソーシャルキャピタルの指標のひとつは「一緒に飲みや食事に行って、何の目的がなくても楽しく会話でき、かつ尊敬できる部分を持てる人が何人いるか」というものです。目的や有用性を度外視して、肌が合って刺激を与え合える関係性の蓄積です。...自分がつないだことがきっかけになって新たな友人関係が生まれたり、新しいムーブメントが起きることを嫉妬せず素直に喜べるメンタリティーが何よりも重要なのです。という話が載っていた。こちらも「新しいムーブメントが起きる」ということがポイントだと思える。なお、サラリと書いてあるけれど「嫉妬せず素直に喜べるメンタリティー」というのは、実はなかなか難しいかもしれない。
先日も、とある女性ととある話をしていると、男の嫉妬・羨望という話になり、現実の世界では、
あぁーもう、男ってめんどくさいのね^^;と言われるようなことに巻き込まれてしまっていたりして....(汗)
さて、twitterをメディアとして縦横無尽に使い尽くす津田氏の醍醐味は、もっと別のところにある。それは、「人はすべて他人にとってのソーシャルキャピタルである」という以下の一節に現れている。
今までは情報だけでなく「人」への「アクセス権」をマスメディアが握っていて、有名人と一般人を隔離することで優位を保っていました。昔は有名人や知識人に合おうと思った場合、まず連絡手段を考えるところから始める必要がありました。ここの部分は、見事に「メディア革命」のポイントを指摘している。エスタブリッシュメントな世界だと、誰に会うには、誰くらいの肩書きが必要、ということがよく議論されるが、ネットの世界では、誰であるかということもともかく、何を考え、何を言って、何をやっているのかということも大切になる。そういう意味で、仕切りをしていたメディアの位置付けが変わるという考え方は、ひとつの見方としてアリなのだと思う。とまあ少し控え目に書いてみたが、実はこのように考えることは、「大きな勇気」を与えてくれているのだと思う。
しかし今やツイッターで直接連絡が取ることが可能になり、タイミング次第では会うこともできる。人間関係資本が豊富な人へのアクセス権が、そうでない人でも持てるようになったというのが、実はメディア革命のいちばん大切なポイントなのです。...
そのような環境下で求められるのは「自分自身も他人の資本である」という意識をもつことです。平たく言えばギブ・アンド・テイクー言葉を換えれば自分は資本を使う主体のみならず、他人の資本として使われる客体でもあるという意識を持てということです。自分が他人の資本として使える価値が大きくなればなるほど、自分に対してアクセスしてくる人間が増えます。結果、それは自分に多くのソーシャルキャピタルが回ってくるということを意味します。
きれいごとを言うつもりも、甘い考えをするつもりもない。ただ、時代の流れとして、確実にソーシャルキャピタルのようなものの大切さを認識する方向に動いていると思う。(というか、昔はそうだったというところもあるから、単にちょっと戻ってみただけかもしれないが...^^;)