『「いじめ」は精神的に未熟な人の固有の現象である』

AERA 2012.7.30に『内田樹の大市民講座 「いじめ」がもたらす本当のリスク』と題したコラムが掲載されていた。
大津の「いじめ」事件について、いくつかの媒体からコメントを求められた。いつも同じことを答えた。

もし、「立場上反論や反撃が許されないものに、暴力をふるい、屈辱を与え、生きる気力を失わせる」ことを「いじめ」と定義するなら、今メディアが学校の教師たちや教育委員会に対して行っていることは、そのまま「いじめ」を実行しながら、「いじめはよくない」と正義の主張をなしているつもりでいるメディアの知的不調に、私は深い疲労感を覚える、と。



反論も反撃もすることのできない人間を、猫がネズミをいたぶるように、じりじり追い詰めることから嗜虐的な快感を引き出している人間の顔を私たちはよく見知っている。それは「級友をいじめている子供」の顔である。…

「いじめ」は精神的に未熟な人に固有の現象である。だから年齢とはかかわりがない。

彼らには、自分とともに集団を構成している同胞(とりわけ弱い同胞)たちのパフォーマンスをどうやって向上させて、「集団として生き延びるか」という問題意識がない。彼らにとって喫緊の問題は、どうやって「隣にいる人間が享受しているパイ」を奪い取るか、どうやって同じグループの他のメンバーを無力化するかなのである。そうすれば「自分のパイの取り分」が増えると彼らは信じている。

だが、構成員中の「無力な人間」の比率が上がるほど、「集団ごと」淘汰されるリスクが増えるのでは……と不安になることが彼らにはないのだろうか?
このいじめの問題をエネルギー・環境に関する問題に投影してみると、同じようなことが行われているのが分かる。

現在、エネルギー・環境に関する意見聴取会では、電力会社の社員、関係会社の社員などは、発言をしないよう行政指導がなされている。まさに
立場上反論や反撃が許されないもの
となっているのである。そんな電力会社を取り囲むように毎週のように反原子力デモがなされている。まさに「いじめ」である。もちろん、メディアは、それをおもしろおかしく報道するだけで、自分たちがその「いじめ」に加担していることになっているとは思ってもいないだろう。

どうやって「集団として生き延びるか」という視点は、公共・公益を考えるところからくる。自分のことだけ考えていればいいという視点では、そんなことは考えられない。ちょっとぐらい迷惑をかけてもいいのではないかとか、それくらい経済的負担なら別に構わないではないかといった利己的な「俺様」志向では、日本をどうしようとか、地域をどうしようとか、そういうことを考えることもできないし、実際に責任ある行動も期待できない。

結局、「いじめ」は「精神的に未熟な人に固有の現象」というわけだから、無責任にそういう活動をしているのであれば、それは精神的に未熟だということなのかもしれない。日本は、戦後、そういう未熟な精神構造しか持てない人をたくさん作ってきて、それがここにきてわらわらと出てきている感じ^^;;

この国、大丈夫かな...

  by yoshinoriueda | 2012-08-04 19:27 | 思うに・・・ | Trackback | Comments(0)

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