イエスの愛は平和ではなく剣(「<心>はからだの外にある」)
2006年 06月 16日
愛とは、最終的に、相手を自分からも自立させることであり、そのことで同時に、自分を愛の対象から自立させることでもある。これがイエスの愛が平和(順応・融和)ではなく剣(独立)であることの意味である。逆に、和とは、愛の原理ではなく、権力の原理、したがって支配と従属の原理である。自立できるということは、責任を負いながらも、自由を得るということである。愛には、いろんな考え方があるものだ。確かにこれも愛なのかもしれない。
そう考えると、子供を自立させるということは、親の愛の現れといえるのかもしれない。自立させるには、まず、基本的なトレーニングを積み、そして、「自分の生活に影響をおよぼす事柄を自身で制御できるようになる」ようにもっていかなければならないのだろう。
そのための手段の一つが教育なのかもしれない。「人間を自由にするのは、知識あるいは情報である」と著者は言うが、ここでいう知識や情報というのは、経験性や身体性も含めたものなのだろう。だから、単に学校で学ぶことだけでは足りない。
いろいろ考えていると、やはり生き様を見せることが大切なんだろうなあと感じる。自分がちゃんとできているのかということは棚に上げておいて(^^;;、これは大切なことなのだろうなあと、しみじみ実感した。