「必要なものは与えられる」
2006年 11月 26日
先日、そうじが趣味という人と話をしていて、「(その人の)子供が自宅以外のトイレに行くのを嫌がるのは、(その人が)あまりにきれいにそうじをしているからではないか...」と心配していたが、子供が不慣れな場所に警戒するということはあるにせよ、それはそれで、その子供にとってはいいことなのかもしれないと思った。なぜなら、その子供は、きれいであるということが「普通」であり、汚れているということは「普通ではない」ということを身をもって知っているからである。親が子供にできる躾のあり方だと感じる。
ま、それはそうとして、「必要なものは与えられる」という言葉が紹介されていて、この言葉にいろいろと感じるところがあった。この言葉は、「必要なものは(神なり仏なりがいずれ)与えてくれるものだから、無理に買う必要はない」という話の中で紹介されていたのだが、これは単にモノについて当てはまるだけでなく、いろいろなことに当てはまるような気がする。
例えば「機会(チャンス)」。その人に必要な時に、必要な機会が与えられるのかもしれない。また、例えば「試練」。必要な人に対して「試練」は与えられるのかもしれない。こう考えると、人生の中で起こるさまざまな出来事は、すべて「必要なもの」として「与えられている」のかもしれない。そう考えると、なんだかどこかの宗教のようだが、まあ、「因果応報」という言葉もあるように、そう考えることもできるかもしれないと受け容れれば、機会も試練も与えられたことに感謝して、それにまっすぐに取り組むしかないとも思える。
というわけで、改めて品質管理の基本である5S(整理、整頓、清掃、清潔、躾)を思い起こすとともに、今、身の回りで起こっている出来事は、すべて自分にとって必要なことだと思い、また前向きに生きていこうと思った。
#うーん、ちらっと本を眺めただけだが、ちょっとだけ「心のそうじ」ができたかな...(^o^)
この「躾」というのは、まず、なにかを続けることから始まるような気がします。人はみな、きっとなにかを続けることはやっているはずです。イチローは、バッターボックスまで歩くときの歩数が決まっているそうです。そんなスゴイ人でなくとも、毎日ご飯を食べるだろうし、夜になれば眠るだろうし、毎日やっていることというのは必ずあると思います。そんな毎日の中から、必ずやることを意識して自分に躾けるというところからはじめてはどうでしょうか?